簡易軌道 1971年3月

      簡易軌道 1971年春

地図

北海道には殖民軌道(のちに簡易軌道と改称)が30以上建設された。そのうち1960年代後半まで残っていたのは図の6箇所だけである

60年代末から70年代初めにかけて、簡易軌道で最も名が知られていたのは歌登だろう。どういうわけかここだけは市販の大きな時刻表に掲載されていたからである。巻末の私鉄の欄を開くと、北海道のバス路線や私鉄と並んで「歌登町営軌道」の名がある。小鉄道やナローに関心を持ち始めた頃から、いったいどんな鉄道なのか、ずっと気になっていた。
 鉄道雑誌には、まれに簡易軌道の写真が載ることがあり、東藻琴などは蒸機時代の写真が紹介されたことがあった。鶴居村営軌道は少し前に廃止されていたが、雄別鉄道と平面クロスしていたこともあって、比較的知られていたと思う。また、広田さんの『魅惑の鉄道』では、馬車軌道のすばらしい写真を見ることができた。ただ、私が関心を持ち始めた頃には、ほとんど情報がなかったため、歌登と幌延以外は廃止されてしまったと思っていたのである。
 高校生になったら夏休みに北海道へ行くと決めていたので、春からいろいろ計画を考えていたのだが、このときに迷ったのが歌登に行くかどうかだった。


出発点は天北線の小頓別駅。まずそこまで行くのが一苦労である。夜行で移動し音威子府から始発に乗るのでは時間的制約が大きく、安い宿泊先を見つけたいが、浜頓別まで行かないとユースホステルがない。どうせ行くなら、駅で車両を撮影するだけでなく全線に乗って走行写真も撮りたいが、そうなると一日半から二日の旅程を費やす必要がある。手元に資料がないので、あいまいな記憶しかないのだが、たしか5月ごろに時刻表に「運休」とか「一部運休」とかいう情報が載ったせいで、最終的に行くのをやめたのだと思う。 一方、幌延町営軌道は、宗谷本線の問寒別から出ていたので、行くのはずっとラクだったが、最初の旅では立ち寄らなかった。鉄道模型趣味に記事が出たことがあったが、そこに紹介されていた車両などがあまり魅力的に思えなかったので、旅程から除外したのだろう。

 北海道の旅から帰ってすぐに「鉄道ファン」9月号を見て衝撃を受けた。けむりプロの「ミルクを飲みに来ませんか」という作品である。 まだ根釧原野に3つも簡易軌道が残っていたのだ!
 しかも、それまでに見た簡易軌道の写真とはまったく違う視点で撮られているものばかりだった。簡易軌道の車両は、自走客車にみられるように形態的にはそっけないつくりのものが多く、車両に焦点を当ててもおもしろい写真は撮りにくい。ところが、この作品に収められた写真では、雄大で荒涼とした道東の自然の中を小さな列車が走っていく「もの寂しいか弱さ」(「ミルクを飲みに来ませんか」本文の表現)が見事に表現されていたのである。こういう写真が撮れるならば、たとえポテンシャルの低い車両であっても行く価値があるではないか。

ミルク

「鉄道ファン」112号(70年9月号)に掲載されたけむりプロの作品 「ミルクを飲みに来ませんか」表紙

 文末には、読者へのこんな呼びかけが書かれていた。「あなたが鉄道に求めるものはいったい何なのか。自分の心を探ってみるには絶好の材料です。もし何も探り当てる自信がないとしても、とりあえず”ミルクを飲みに来ませんか”」

 行かねばならない、と思った。これらの鉄道の存在を知らずに北海道を旅して帰ってきたという悔しさもあったには違いないが、存在しているうちに<何かを探り当てに>行く必要がある、と感じたからである。記事の中では、標茶町営軌道と別海村営軌道が、次の春には廃止予定だと書かれていた。

 道東の簡易軌道に憧れた理由はもう一つあって、それは別海村の西別川周辺の開拓地の生活を描いたものを読んだことがあったからだ。叔父の書棚で見つけて、借りて読んだ「牧人小屋だより」(周はじめ著・新潮社、1962年刊)という本である。著者の周(しゅう)はじめは、開拓地の自然とそこに生きる人間の姿を、半ばは共同体の一員として半ばは外部の観察者としての眼で、描き出している。加えて、この本には著者自身による写真が何枚も収められていて、根釧原野の厳しいが美しい四季を垣間見ることができた。

 この2つの作品に導かれ、翌春の旅では5日間を費やして、4つの簡易軌道(問寒別、標茶、浜中、別海)を訪れた。残念ながら、そのうち2箇所では、もう動いている姿を見ることはできなかったのだが、残りの2箇所、問寒別ではほぼ1日、浜中では2日半を過ごし、いろいろな光景をフィルムに収めた。全部で290カットほどあるうち、過去に紙媒体で公表したものは1枚のみである。

幌延町営軌道3月23日  標茶町営軌道3月24日  浜中町営軌道3月25日  浜中町営軌道3月26日
別海村営軌道3月27日  浜中町営軌道3月27日  40年後に旅をふりかえって