1971年春の北海道といえば、鉄道ファンにとっては「最後のC62重連」であった。この年のうちに、急行「ニセコ」がディーゼル牽引に置き換えられることが公表されており、
次の冬にはもう雪景色の中でC62重連を撮ることはできないのがハッキリしていたからである。当時、DD51は根室本線の釧路以西に集中的に配備されていた。
それが、いよいよ他の幹線に及んでいく。「すずらん6号」「利尻」が無煙化され、次はどこの煙が消えるかわからない。というわけで、カメラを抱えた大学生
高校生(そしてけっこうな数の中学生まで)が、春休みに「山線」を中心に、宗谷本線、室蘭本線、石北本線に殺到していた。
道北の駅で、高校の同級生がカメラをぶらさげて列車を待っているのに会ってびっくりしたことがある。その彼は、普段は蒸気機関車の話などしない、 鉄道についてはそれほど詳しいとは思えない男だったのだが、「ニセコとC55を撮りに来た」「他の同級生にも会った」というのである。 少々ひねくれ者の私としては、「へえ、そんなに人気があるんだ」と冷ややかに傍観していた。
実はその前の夏に渡道したときは、「ニセコ」や石北本線のD51なども撮影しているのだが、未熟な腕前のせいで、どうも思うような絵にならなかった。国鉄の幹線よりも炭坑の専用線の方がずっとおもしろく思えたのに加えて、秋に尾小屋鉄道に行って以来、自分には小さな鉄道に何日も費やす撮影手法が向いているということが、はっきりわかっていた。雪の中のC62重連を撮る人はたくさんいる。しかも自分よりずっと上手い人たちが。だったら、その人たちと場所取りをしながら撮るよりも、自分に向いている被写体に集中した方が良い。C62もよいけれど、簡易軌道だって最後なのだから誰かがそれを記録しておかなければ。そういうふうに割り切っていたので、このときの旅では、国鉄はほとんど撮っていない。そのうえ、「けむりプロ」の提示した方法論を金科玉条のようにとらえていた当時の自分にとっては、有名撮影地で多数のファンと同じ場所に立つということの方が、想像のできない行動だった。
当時おそらく数万人の鉄道ファンがいたはずであるが、その大半は国鉄蒸気の終焉を撮りたいという人たちであった。蒸気機関車が走っていても、夕張や日曹などでは行き会うファンの姿も少なかった。まして、「ぎんがてつどう」の仲間のように、蒸機の走っていないナローの鉄道に何日も張り付くなどという選択は、多くの鉄道ファンには想像を絶するものだったに違いない。旅の途中で出会った鉄道ファンからは、一様に「どうしてC62を撮らないのか」と不思議がられたし、簡易軌道のことや道内の炭坑の専用線の話には興味を示す人は少なく、会話が長く続くことは無かった。
1人だけ例外がいた。日曹での撮影の帰りに出会った慶応高校の男は、期間をずらした周遊券2枚を持って「37泊38日」の旅をしているという。もう4月になろうというのに「2月下旬からずっと北海道にいる」という、とんでもない奴であった。簡易軌道は見ていないようだが、私鉄や専用線のことも良く知っていて「美唄の9600が美しい」というような話ができる。この男とは妙にウマが合って、宗谷本線の夜行の中で延々と語り合ったのだが、「浜中に3日も行ったバカがいる」という話をどこかで聞いたらしい。「そのバカってのは俺のことだよ」と、大笑い。周囲の客に「静かにしろ」と怒鳴られて、声を潜めながらいろいろな情報を交換した。
あとは、茶内の近辺で撮影に来た人に2人会った。だから、「ミルクを飲みに来ませんか」の反響も多少はあったということなのだろう。ただ、その2人も撮影に費やすのはその日だけだったらしい。浜中のように支線があるところでは、乗って全線を見ようと思うと、それだけでまる1日かかる。ロケハンして、しっかり撮っておこうとすれば3日でも足りないのだ。小さな鉄道でも、その全体をとらえ、さまざまな様相を表現しようとすれば、機関庫のある駅に寄って数時間、というわけにはいかないのである。