正直に言って、簡易軌道の車両は当時わずかに残っていた軽便鉄道の車両と比べて、かなり見劣りがする。たとえば井笠や頸城の木造オープンデッキの客車などと比べると、どうみても分が悪い。
本州の軽便車両には、しばしば明治の香りがあったけれども、我々の世代や少し上の先輩たちの接した簡易軌道には、それがないのだ。末期の簡易軌道はどこも戦後の 戦後の車両が中心で、自走客車などは昭和30年代につくられたものである。私が見た範囲で魅力的な形態だと思えるのはミルクタンクと 側板の低い貨車、あとはDLや一部の自走客車が「まあ及第点かな」という印象だった。
ストラクチャーも、車庫や待合室は新しいコンクリやブロック積みの建物が多く、木造の素敵な建物はあまり多くなかった。最後まで道東に残った路線は、 後述するように建設や動力化された時期が新しいので、それも当然である。ずっと後になって、湯口徹氏や石川一造氏の撮影された ガソリン機関車や木造客車の写真を見たときには、「ああ、こういう時代もあったのだ」と納得がいった。最近になってWEB上で写真が公開されている 久著呂線のトラス橋も、個人的にはたいへん驚いた。もし、戦前の根室線や西別線などの写真が多く残されていたならば、簡易軌道のイメージは ずいぶんと違ったものになっていただろうと思う。(古い殖民軌道の様子に関心のある方は「根室大観」「根室原野発展写真帖」「挽歌橋」などで検索してみられたい。)
北海道の殖民軌道は、1927年(昭和2年)の根室線厚床~中標津間の開通をもって嚆矢とする。それまで交通手段といえば船と悪路のみで、季節や天候によっては往来が困難だった
この地域にとっては、2フィート6インチの鉄路が開拓の足として欠かせないものだったに違いない。この根室線の詳細な線路図は、あまり紹介されたことがないように思う。
右は、昭和14年に大阪の「和楽路屋(わらじや)」というところから発行された地図(「昭和11年津軽要塞司令部検査済」の注記あり)で、西別線や春別線などは見当たらないが、
根室線(厚床~標津)と新設された国鉄標津線(図のルートは不正確)の両方が記載されている。
軌道は厚床から北西の上風蓮に向かい、途中から真っ直ぐに北上して
標津川の湿原を迂回し、後の忠類線の一部をたどって河口の三本木に達している。この地域には幾つか軍の施設があったため、図の国鉄標津線については故意に不正確に描かれた可能性があるが、
簡易軌道根室線については、他の資料とも一致しているので、わりと信頼に足るのではないだろうか。
この路線図を眺めていて思ったのは、河口と湿地帯を避けて敷設されているようだということである。厚床からいったん北西に向かうのは、長い頑丈な橋が架けられないため、
風蓮川、西別川、標津川という3つの大きな川をなるべく上流側で渡らねばならなかったのだろう。標津川下流の湿地帯を避けているのも特徴的だ。
固い道床をこしらえるのが困難な土地ならではの、ルート選定である。
実は、殖民軌道~簡易軌道の歴史をみると、馬力で動かしていた路線の方がずっと多く、一部の例外を除けば動力化された時期はかなり遅い。
根室線、枝幸線、藻琴線、雪裡・幌路線(のちの鶴居村営軌道)のように距離が長い路線と、資源の搬出に使われた問寒別線、仁宇布線は
戦前から機関車が入っているが、他の多くは馬車軌道のまま戦後に廃止されているのだ。
道東の路線で言うと、標茶線は最初から機関車牽引だが、戦後につくられたものである。浜中の3路線は開通後30年以上、1950年代末まで
馬力であった。別海村営軌道が開通したのは、実に新幹線開業の前年である。西別線などは、戦後になって馬力に戻されているらしい。
また、最近今井啓輔氏の調査で判明したところによると、鶴居はガソリン機関車の導入後もかなりの期間、馬力が併用されていたそうである。
根室線の名残である風蓮線が廃止されたのが64年。この少し前に、計根別から養老牛温泉に向かう線など他の馬車軌道も廃止され、
道産馬がトロッコを引く姿は見られなくなった。