40年後に旅をふりかえる 1

40年後に旅をふりかえる その3

「馬車軌道」というと、つい我々は非常に古いものだと思いがちであるが、ここでは戦後十数年間も生活の足として使われていた。 道東や道北では、物流の幹線は船や鉄道でも、そこから先の輸送は(線路の有無にかかわらず)長らく馬が担っていたのである。 実際、この71年春と前年夏の旅では、まだ各地で道産馬の牽く荷車やソリを見ることができた。ところが、74年の秋に渡道したときには、 どこでも道路整備が進み輸送手段としての馬は、ほとんど姿を消していた。

北海道では、戦後1950年代から60年代半ばまでに「馬の時代」が終わり、遅いところでも70年代前半までには「クルマの時代」になったのである。 つまり、自走客車やDLの活躍する簡易軌道は、馬とクルマの時代の「つなぎ役」として僅かな期間この世に登場したものなのであった。 そういうことからすると、我々の知っているつもりの簡易軌道の姿は、たまたま道路事情が悪かった地域に高度成長期になっても残されていた、 かなり特殊なものだと言えるだろう。広田尚敬氏が記録された風蓮線の最期の姿こそが殖民軌道・簡易軌道の多くの実情を伝えているということになる。 その原野と鉄路と馬と人間の織り成す物語のほとんどは、残念ながら映像や文字によって残されることはなかったわけだ。


 このときの旅では、「牧人小屋だより」の描いたような開拓時代の名残りに出会うことはできなかった。 「あなたが鉄道に求めるものはいったい何なのか」、自分の心を探りに行こうではないか、という「けむりプロ」の呼びかけに対する答えも、 得られたとは言えない。私にとって、この40年前の宿題は、いまだに明快な回答が出せないままである。
 とはいえ、明瞭に言語化はできないものの、ある意味では求めるものを探り当てたと言えるのかもしれない。 「開拓時代」や「明治」には出会えなかったが、他では見ることにできない心楽しい情景には、たくさん出会うことができた。 そして、「ミルクを飲みに来ませんか」のように広大で荒涼とした風景の中を進む姿を遠望する手法や、簡易軌道ならではの 「いい加減な」ところに着目してとらえれば、満足できる写真も撮ることができた。
 夏には熊笹やススキだらけで画になりにくい場所であっても、一面の白い背景になっていれば、全然印象が違う。 それまで雑誌で見た写真は、ほとんどが短い北海道の夏の間に撮られたものだったので、その印象と地図から得られる情報をたよりに、 どういう場所なのかを想像していたのだが、実際に来て見たら予想よりずっと美しい風景であった。
 雪が融けた後には、泥だらけの道と牧草地が広がる、まったく異なった世界を見ることになったであろう。5-6月なら新緑と青空、 秋になれば一面枯れ草色。どの季節に訪れるかによって、同じ土地、同じ鉄道が、様々な顔を見せてくれる。北海道の短い夏は、 天気の悪い薄曇の日も多く、熊笹の生い茂った丘陵や疎林は、列車を引き立てる背景になりにくいことも多い。前年の夏には、 写真の腕も未熟だったので、無理をして歌登に行ったとしても、たいした写真は撮れなかったであろう。 当時の私は「なくなる前に見たい」ということしか考えていなかったが、この年の春に訪れたことは、 結果として非常に良いタイミングであったと思う。


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