「自己紹介」にもあるように、中学生になってモノゴコロがついたころには、どんどん蒸気機関車が消えはじめていた。中学一年の1967年10月には常磐線が全線電化され、C62の牽く「ゆうづる」が消えたが、つづく1968(昭和43)年10月の所謂「よんさんとう」では、東北本線が完全電化され、またDD51、DE10、DE11などの投入によって、本線どころか各地のヤードにまで無煙化が波及することになった。
鉄道雑誌を読みながら、わたしは切歯扼腕したが、あのころの中学生は自由に旅行に出ることなど、簡単には許されていなかったように思う。しかし、なんとか撮影に行きたい。期末試験のときなど、なんとかいい成績をとって親の機嫌をとり、撮影に行くのを許してもらおう(もちろんお小遣いも必要)と、「殊勝な」心構えで付け焼刃の勉強に励んだものだ。
といっても、中学生は日帰り旅行が原則。列車本数や撮影効率を考えると、八高線、川越線、総武本線あたりということになる。雑誌をみて「C55、いいなあ。D50いいなあ。C59やC60、61、62、撮りたいなあ」と夢見ている身にはいささか不満だったが、さて、当時のネガを見返してみると、東京近郊でもいまとなっては結構ゼイタクな鉄道情景が見られたんだなあと、感慨ぶかいものもある。
いずれにせよ、たとえ日帰りでも、早朝に家を出て夜遅く帰宅する撮影行は、中坊にとっては「大冒険」だったのも、事実なのだ。
八高線・川越線 総武本線
平のこと 呉線 北海道の旅の途中で