あの頃の東京近郊でもっとも魅力的だったのが、総武本線だ。なにしろC57、D51(新小岩にナメクジがいた)、C58、8620、が走りまわり、客車列車の本数も少なくなかった。佐倉機関区など、一日いても飽きなかったのである。
1968年1月、八高線への初めての撮影行の失敗に懲りたわたしは、フィルムのカメラへの装填法をきっちり学んだうえで、その月のうちに佐倉へ出発した。
それにしても、当時の中学1年生にとって、佐倉は遠かった。総武快速なんてまだ存在しないし、千葉への総武線直通電車は荻窪までしか乗り入れていない。新宿発6時43分の急行「犬吠1号・水郷1号」はあったが、急行利用なんて贅沢は許されない。
吉祥寺から快速で荻窪へ行き、荻窪始発の総武線に1時間半ちかく揺られて千葉へ。千葉発8時25分の気動車で、8時48分に佐倉に着いた。
ほぼ入れ違いの上り326レは撮りのがしてしまい、まずは機関区を横目に物井方向に歩いて、下り323レを撮影する。牽引機がC58なのはちょっと残念だが、冬の朝日を正面に受けて、ナンバープレートがきらりと光っているのが美しい。
それから機関区の事務所を訪れて撮影許可を受けると、機関区で整備を受けるカマ、休むカマ、本線を走る列車にカメラを向けつづけることになった。この日は結局、一日中、機関区周辺で過ごすことになる。とにかく無我夢中だったのは間違いない。