なにげなくとったスナップでも、一枚の写真には実に多くの情報が含まれています。その情報の多さのことを、名取洋之助は「写真がおしゃべりをする」という表現をしました。
いま、そういうことを語る人が居るのかどうか知りませんが、私が写真を撮り始めた頃、写真を撮る行為のことを「引き算なんだ」というふうに説明する人が居たのを覚えています。
たとえば、前景と背景も十分に吟味して、良い被写体を中央に置いた写真なのに、意図したほどには他人に感心してもらえない写真というのが、あります。私自身の失敗作(下の写真)を例に説明しましょう。左の蒸気機関車はきれいに磨かれ、太陽の光でくっきりとかたちが見えています。停まっているディーゼルカーの窓には、乗客の姿がきれいなシルエットになっており、女の子が窓の外を見つめています。逆光に映える運転席の向こう、屋根が光っている駅舎の下には、たたずんでいる子どもが居ます。非常に良い瞬間なのですが、写真の出来はよくありません。
なぜか。蒸気機関車の質感を伝えたいのか、窓と人影のおりなすフォルムを見せたいのか、子どもの遊んでいるのんびりした駅の雰囲気を感じさせたいのか、朝の緊張感を伝えたいのか、わからないものになっているからでしょう。鉄道ファンなら、ディーゼルカーの番号や台車に目が向いてしまうかもしれませんね。
名取の言う「おしゃべりが過ぎる」写真、内容が多すぎる写真は、見る者の視線を分散させ、「何を読み取ったらよいのか」という混乱を引き起こすのです。
たいていの場合、撮影者は「こういう場面に出会うのは難しかった」というような説明をして、見る者を説得しようとするのですが(そして仲間内だけでしか分かってもらえないのですが)、
冷静に考えると、何かフレーム内から強い主張を持つ要素を取り除いてみたらどうか?ということに思い当たります。この例の場合ならば、ここに見えている光景は3分割して、
左の蒸気機関車とバックのディーゼルカー、中央の窓辺の男性と右の女の子、車両の先端と背景の子どもをそれぞれ中心とする、3枚の写真とすれば良かったのです。(実際に切ったものを
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