動力車は、「世界の鉄道」1970年版ではDL8両(表参照)とされ、そこにはKATOの情報がない。ノートにはKATO1両、泰和2両、その他
1・2・6、ディーゼルロータリーとその後ろにもう1両、というメモがある。車庫内はスペースがなく写真を撮っていないので、KATO以外が
どんな車両だったかは定かでない。
小熊米雄氏の「北海道における森林鉄道用ジーゼル機関車について」(北大演習林研究報告)には簡易軌道6路線15両の表が載っており、
元は当別線で使われた2両のKATO7トン(昭和24年製)が33年に問寒別に移動したという記述がある。35年に湯口徹氏が訪問された際にも
5と10という番号を付けたKATOが居たそうだが、私が見たものは37年製造の別物らしい。
このほか小熊氏の報告には市川重工製8トンDLが2両入線したとある。市川重工業といえば、北海道の森林鉄道に5両、王子製紙の専用線に
2両蒸機を納入した実績のある千葉県の小メーカー。元は日本機械車両工業という名で、戦後に市川重工業となり(さらに旭重工業と改名)
まもなく廃業したという。廃業の時期も、DLを何両製造したのかも分からない。
たった16キロの鉄道であるが、これらの情報を総合すると戦後に入線したDLは少なくとも13両はあることになる。昭和30年代には、
まだ炭坑や国有林からの貨物があり、加えて道の農業政策に基づく補助金があって牛乳運搬用に車両を新製・補充したのだと思われるが、
それにしても多い。湯口氏は、地元の修理能力が乏しかったこと、国有財産を耐用年数前に廃棄するわけに行かなかったことが、その理由であろうと述べている。
問寒別市街には、牛乳缶の運搬用に鋼製の有蓋貨車が2両、鋼製客車が2両、そして、木造オープンデッキの二軸客車が雪の上に屋根だけを出していた。
この客車は、WEB上で見つけた記述によると、クローム鉱山や炭坑からの輸送を請け負っていた「天塩鉱業」という会社がつくったものらしい。
そうなると、木造のフランジャーも出自が同じではないかという気がしてくるのだが、これについては何も情報がない。
訪問時には、天塩鉱業時代のことも、この鉄道にかつて蒸気機関車が走っていたことも知らなかった。もし知っていたなら、誰かに
「資料はないか」「昔の写真を持っている人はいないか」ということぐらいは尋ねただろう。そして、たとえ何の情報も得られなかったとしても、
ナローの蒸機が二軸のオープンデッキと運材台車を牽いて雪原を走る姿を想像しながら、もっとすばらしく心豊かな旅をすることができただろうと思う。
上)雪のちらつく中、庫から出てくるKATO。庫内にはDL6両とモーターカーがあった。
左)鋼製客車妻面のコンセント。室内照明の電源をDLからとるため、キャブ背面ランプに下がっているケーブル(上写真参照)をここに繋ぐ。ジャンパ連結器みたいな存在。
メーカー | 車重 | 製造年 | エンジン | 数 |
---|---|---|---|---|
泰和 | 7t | S42 | いすずDA220 | 1両 |
泰和 | 7.5t | S38 | 日野DA59A | 1両 |
泰和 | 7t | S35 | 日野DA70A | 3両 |
日立 | 7t | S30 | 民生KD3 | 3両 |
メーカー | 車重 | 製造年 | エンジン | 数 |
---|---|---|---|---|
市川 | 8t | S27・28 | 新三菱DE | 2両 |
加藤 | 7t | S24 | 民生KD3 | 2両 |
「世界の鉄道」巻末のデータにはKATO7トン機は記載されておらずその事情も不明。最上段の泰和がセミセンタキャブ、2番目がディーゼルロータリーと思われる。小熊氏の調査で昭和33年以前に入っているという市川重工業製8トン機は、旭重工の30年製で1両が69年まで存在していたという別の情報もあり。