問寒別余話 2

問寒別余話 その2

そうした状況を知る手がかりが、民俗学者・宮本常一の記録の中に残されている。
 敗戦前に大阪府の嘱託となっていた宮本は、戦災者を北海道に入植させようとする集団入植計画の引率者として、昭和20年の10月に北海道へ向かう。 大阪を出発した約千八百人は道東道北各地に散っていったが、そのうち十数名は宮本に伴われ10月24日に問寒別の駅に到着した。

運賃は片道70円だったが、冬季のみ10円増なので「運賃変更」のハンコが押してある

 「入植地は駅より三里も奥だという。入植者たちはそこで地元の人たちにひきとられて奥地に入ることになる。『これからさきは われわれがお世話しますから』と地元の人たちが言うので、そこで別れることにしたのだが、奥地へはいるには森林軌道があって、それに乗ることになる。(中略)

 駅の辺りは一面のススキ原である。その彼方に人びとは住んでいるという。このススキ原ももとは原始林であった。 それをパルプ材として次第に奥地へ伐り進んで行き、その材木を運び出すために森林軌道を敷いた。そして伐採跡地へは次第に人が入って 土地を拓き住みつくようになった。(中略)
 小さな機関車である。その後ろへ貨車とトロッコをいくつかつないだ。人びとは貨車に乗り荷物はトロッコにつけたが、貨車に乗り切れない人はトロッコに乗った。 空は曇って暗く重い。雪になるかも知れぬ。汽車は動き出した。そして枯原の向こうに消えていった。見送る者は私と幌延の役場の吏員の二人だけであった。 私は入植者の運命に空の暗さのようなものを感じずにはおれなかった。」(「民俗学の旅」より)

佐野真一著「宮本常一が見た日本」(NHK出版)には、このとき問寒別についた12戸のうち半分はすぐにこの土地を離れ、6戸のみが入植したものの 間もなく3戸に減り、最後の1戸は昭和36年に離農したという調査結果が記されている。
 宮本が訪れる15年前に馬車軌道として敷設されたこの路線には、戦時中に蒸気機関車1両とガソリン機関車2両が入ったという記録がある。 引用した文中では、「機関車」「汽車」という2通りの記述があるので、どちらが牽引していたのかは定かでない。この鉄道に関する資料は少なく、 古い写真もほとんど残されていないようだ。蒸気機関車というのが、どこのメーカーでどんな形態をしていたのかも、わからない。 宮本が「貨車」と区別している「トロッコ」というのは、運材台車のことだろう。人が乗った「貨車」は、おそらく鉱産物の運搬用のものではないだろうか。
 ずっと後の資料(世界の鉄道70年版)によれば、客車が2両と貨車が47両という数字があるが、この客車2両は昭和27年に鉄道が村営に移管された後 31年に当別線から来た客車のことだろう。貨車47両というのは、鉱産物用の無蓋貨車かもしれないし、国有林からの材木を運ぶための鋼製運材台車であるかもしれない。 私は見ることができなかったが、雪のない季節に撮影された他の方の写真を見ると、運材台車も最後まで残っていたようである。

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