問寒別余話

問寒別余話

   市街    20線
    8:40 → 9:40
  10:40 ← 9:40 日祭(15:00 ← 13:00)
  15:00 → 16:00
  17:00 ← 16:00

これがノートに書いてある運行状況なのだが、牛乳缶の収集がある平日と休みの日で2便の戻り時刻が違うのはよいとして、どうして 日曜祭日だけ2時間もかけて戻るのか? これだと途中で1時間も停車していたことになる。どういう事情でこんな時刻になっているのか、 その場で確かめればよかったのだが、40年もたってから「おかしいな」と気づいているのでは話にならない。

線路の周囲には人家はほとんどなく、ときおり見かける新しいサイロや牛舎にまじって壊れかけた木造の建物も点在していた


ハガキ

つい先日、旅の前に幌延町に往復はがきで問い合わせをした返信が見つかった。そこには「日曜祭日は2、4、便13:00~15:00で運行してます」と書いてある。 やはり2便の時刻はメモのとおりで正しいようだが、「4便」というのはどういうことなのか。また謎が増えてしまった。
 かつて石炭やクローム鉱、木材を運び出していたときは、列車の数もあったはずである。時間はたっぷりあったので、運転手や 「メガネのおじさん」、荷卸をしていたおばさんなど、働いている人に話を聞いておけば、いろいろ貴重なことを聞き出せた可能性はあるのだが、 当時の私は、この土地がどういう歴史を有しているのかも知らず、雪原を行く列車の写真を撮ることと、古い木造の車両にしか関心を抱いていなかった。 もったいないことをしたものである。
 ところで、この問寒別の原野に入植した人たちは、どういう人だったのか。
 いまは酪農地帯としての地位を築いているが、明治32年、福井県からの15戸が最初に入ったときは、畑作を試みたという。 これがどれほど過酷な条件下だったかは、その後の記録をみると容易に想像がつく。

 最初の郵便局が現在の幌延町内(問寒別ではない)にできたのが明治37年、村の役場ができたのが42年である。 問寒別川で砂金が取れることがわかって、採掘に人が入り込んだのが大正8年。北海道大学の演習林が設けられたのが大正12年、 宗谷本線の前身である天塩線が問寒別まで延びたのが、その2年後である。つまり、鉄道が開通したのは最初の入植から25年も経ってからのことだった。
 戦時中に、クローム鉱山が見つかり、また昭和30年代までは小さな炭坑もあった。一方、酪農は戦前から試みられていたものの、 この一帯で乳牛を中心とする酪農が盛んになったのは、昭和20年代後半になって道が乳牛の多頭飼育を推進してから後のことで、 30年代にようやく酪農地帯としての基礎ができ始めたたらしい。
 要するに、この土地は農業だけで食べていくことは困難で、材木や鉱物など奥地の天然資源がなければ、ある程度の人口を養っていける場所ではなかったということだ。 殖民軌道と呼ばれてはいたものの、ここは開拓に入った農民の生活を支えるというよりは、もっぱら資源を運び出すためと、それに伴う物資の運搬に使われていたのであろう。 クローム鉱の発見後にガソリン機関車が入り、国有林からの運材のために車両が配置されていたことが、それを物語っている。

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