遠山森林鉄道 8
ボンゴ君橋を渡る 機関庫

左)バック運転で視界が悪いため後扉を開けた状態で梨元の橋を渡る「ボンゴ君」
右)機関庫の前に停まっているモーターカーは「森林組合のもの」だと教わったが、「近藤建設」という名が書かれていたこともある

「明日は日曜だから休み」「列車は走らない」と言われたが、はるばるここまで来てすぐに戻るのも残念だし、夕方に平岡に出ても、その後どうするかというあてがない。木沢に旅館があるそうなので、一晩泊まってもう少しこの土地を見て帰ろうと決めた。

 鉄道の今後のことを尋ねると、「明後日から連日、運材列車を走らせる」「一日何本走るかは不明」「運ぶ木がなくなったら終わり」ということだった。セメント列車も5月いっぱいで終了。最後の材をおろしたら、すぐに線路の撤去を始める、線路跡は道路にしてトラックが走るようにするのだという。

貯木場

谷の上に新しい道路がつくられていて、バスも走るようになるらしい。子どもたちは、もう線路を歩かず、それに乗って通学するのだろうか。
 営林署の車庫にはDLとモーターカーが1台しまってあるだけ。扉の前には、森林組合のモーターカーがとめてある。他は、信和林業のDLと、 橋のたもとの傾いた小屋に入れてある営林署のモーターカー、熊谷組のボンゴ改造車。動力車は全部でそれだけしかない。営林署の貯木場のはずれに客車が1両。 運材台車も、セメント輸送用を含めて、全部で20もあったろうか。

左)営林署の貯木場には、もう積み上げた丸太(はいづみ)がほとんどない状態だった

 30年後になって、営林署の輸送が盛んな時代の話を聞き、古い写真を多数見る機会に恵まれた。最盛期の遠山の様子は、私の見た時期とはまったく違っていた。 かつては、「月曜の朝には平岡から300人が入ってきた」「山の宿舎にに床屋さんが巡回してくる」「列車に乗って行商人が来た」「山奥に選挙の投票所を作った」 というほど林業が盛んだったのである。営林署だけで5・6両のDLを持ち、運材台車は最も多いときは240もあったという。最長の12車で10編成が可能な数だ。 その他に民間の6社が車両を保有し、営林署に軌道の使用料を払って、一帯の民有林・共有林から切り出した木を運んでいた。

梨元の図

末期の梨元貯木場。線路配置は2回大きく変わっている。 最盛期の様子は「遠山森林鉄道と山で働いた人々の記録」22pの図を参照

梨元の俯瞰

71年の梨元貯木場。まだたくさんの丸太が切り出されていた。右図とは逆側から見下ろしたところ。この画像のみ「飯田・下伊那の国有林のあゆみ」(南信森林管理所飯田事務所発行)より引用



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