遠山森林鉄道 7
モーターカー1

梨元に戻って貯木場や建物などを撮影していると、保線の人に声をかけられた。線路の管理は営林署の仕事なので、保線要員だけが常駐していたのである。 このとき出会ったのは、松下武人(たけと)、熊谷新人(あらと)、氏原昭、松村賢法(けんぽう)さんの4人。リーダー格の松下さんに「モーターカーに乗せてやる」と言われ、 2kmの停車場(中根)まで往復した。
 戻る前に、線路脇の電柱に下がっている電線に携帯していた電話機をつなぎ、ハンドルをぐるぐる回して何か連絡をしている。後で気づいたのだが、単線で信号機もないこの鉄道では、 電話で確認するのが唯一の確実な「閉塞」の手段だったのだ。

モーターカー2

上) No63という番号が書かれていた営林署のモーターカー。同じ番号をつけたモーターカーがもう一両あり、それは営林署の車庫内に置いてあった。こっちのNo63は、ふだん奥に見える傾きかけた小屋にしまわれている。左端が氏原さん、左から2番目が松村さん


左)梨元から少し上流に進んだところで、一度バックして走行写真を撮影させてもらった





下)左から熊谷新人、松村賢法、
氏原昭、松下武人。松村さんは木沢の青龍寺の住職をしていて、皆から「おしょう」と呼ばれていた

その作業をぼーっと眺めていた私に、武人さんが「俺なら今の様子を撮るがな」と言った。「しまった」と思っても、もう遅い。これは、その後に木曽に撮影に入るときの大きな教訓になった。

 西日の差す梨元の橋のたもとで、モーターカーの前で記念撮影をした。その前後だったと思うが、松村さんが私に語った言葉が、古いノートに書きとめてある。
 「東京は広いんか?」「出てった息子に会わねえですかい?」「マツムラノブミツっていうんです。信じるの信に光と書いて」「坊さんにしようと思ったんですがね。出てってしまったですよ」「十年ぐらいのうちには行き会わねえですかね?」

 ああ、この人は、この深い谷にずっと暮らしていて、東京というところがどういう場所なのかわからないのだ、と気づいて、どう返答しようかとまどった記憶がある。

記念撮影

 東京には一千万人も人が居て、名前が分かっていたとしても偶然出会うなんてことは期待できないのだと説明するべきなのか。それをはっきり伝えたら、 この人はひどく落胆してしまうのではないか。困ってあいまいな返事をしたような気がするのだが、あの時、私はいったい何と答え、彼はそれをどう受け止めたのだろうか。
 30年の歳月を経て、このときの写真を見せた多くの人から、松村さんのことを聞くことになった。その内容については、ここには書かないでおく。 「遠山森林鉄道と山で働いた人々の記録」(南信州新聞社)に収めたエピソードを読んでいただきたい。

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