小熊米雄著「日本における森林鉄道用蒸気機関車」は北海道大学演習林資料として刊行された。 当時、森林鉄道の機関車について書かれた唯一の包括的資料で、掲載写真は印刷技術や紙質のせいで不鮮明なものも多かったが、 他では見られないエキサイティングな内容だった。現在「日本の森林鉄道 上巻」(プレス・アイゼンバーン)で見ることができる。
森林鉄道、森林軌道、林用軌道。どの呼び名も、未知の世界への興味をかきたててくれた気がする。森の中で、いったいどんな車両が走っているのか。
そこには、どんな光景が展開されているのか。
最初に得た知識は、「鉄道模型趣味」の木曽森林鉄道の記事からだった。現物が手元になく記憶がハッキリしないのだが、
時期は1960年代後半で2号続けて掲載されたような記憶がある。もうディーゼル機関車の時代。読んだのは小学生の終わりか、中学生になった頃ではないかと思う。
中学3年の頃には、ナローゲージの車両に関心を持ち始め、小熊さんの「日本における森林鉄道用蒸気機関車」という本が存在することを知って、
「鉄道ファン」誌の「交換室」に「求む」の広告を出して入手した。ポーターやボールドウィンはもちろん、雨宮やバグナル、はては中山機械やら橋本鉄工所やらの製造した
小さな機関車の写真をしげしげと眺めては、はるか昔に消え去った軽便蒸機の走る情景を心に描いて、「この時代に生まれていれば」と悔しく思ったものである。
いつかは木曽にも行きたいと思っていたが、なかなかその機会には恵まれなかった。ある程度自由に動けるようになった高校時代は、もっぱら余命いくばくもない
軽便鉄道や炭坑の蒸機を追いかけていたのと、仲間2人がすでに撮影に入っていたので「あわてて行かなくても」と考え、後回しにしていたのである。
60年代前半まで全国各地には森林鉄道がかなり残っており、国土地理院の地図や登山のガイドブックなどにも軌道のマークを多数見つけることができた。宮本常一「私の日本地図3 下北半島」より
高校2年生だった71年の夏前、昼休みに弁当箱を抱えて高校の図書室に日参し、Mz君と2人で国土地理院の五万図をほぼ全国にわたって調べたことがあった。そのとき、他の資料と合わせて森林鉄道がまだ残っていると判断したところは、木曽と屋久島を除けば、秋田営林局管内(早口と杉沢)、紀伊半島の大杉谷の計3箇所あった。早口の味噌内支線は短く、杉沢はまだあることが確実だったが、地図で見ると良い撮影地はあまり多くなさそうだった。大台ガ原から流れ出る渓谷のひとつ大杉谷は、索道の上に軌道が延びていて、仲間の誰かが見つけてきた本に載っていた写真は、すばらしく魅力的だった。しかし、軌道のあるはずの宮川ダムの奥には、紀勢本線のどこかの駅から30kmばかりバスに乗って入るしかなく、宿泊施設の情報もない。
頚城や井笠、簡易軌道などが消えた後で、新たな対象を探っていた我々は、どこに行くべきかさんざん迷った末に、秋田と大杉谷を諦め、調べたうちで最もスケールが大きくて撮りがいのありそうだった立山砂防軌道に行くことにした。夏休みに入って早々、2人で丸々3日間を費やした立山行きは、成果が大きかっただけに、かえって、その直後にさらなる探索をしようという意欲を失う結果になったかもしれない。西裕之さんの「全国森林鉄道」という本によると、大杉谷は74年まで線路が残っていたのだという。あのときに無理をしてでも行っておけば、索道と軌道を駆使した運材を見ることができただろうと、今にして残念に思うのであるが。
その夏のうちに、杉沢と早口は廃止されてしまい、雑誌に小さな報告記事が出た。「行けばよかった」という気持ちは、あとあとまで尾を引いた。
そして、高校3年の時に「鉄道ファン」に発表された「汽車くらぶ+煙管プロ」による遠山の記事(こっそりひっそりめだたずに 7 「残された森林鉄道を求めて」 72年5月号)を見たことで、現実の森林鉄道を見たいという気持ちは、ますます強くなった。
青森や秋田、長野や高知の山奥に、まだ人知れず動いている森林鉄道があるのではないか。誰も知らない森の奥に、もしかして朽ちた雨宮やコッペルの蒸機が捨てられたりはしていないだろうか。そんなことを夢想しながら、受験の終わるまでの時期を悶々と過ごしていたのである。