これが索道式の東北タンカルのトロッコだった。つまりは、昭和6年2月から5か月間、宮澤賢治が石灰製品販売に最後の生命の灯をかけた東北砕石工場だ。
「同工場は大船渡松川駅の直前にありまして、すぐうしろの丘より石灰岩(酸化石灰五四%)を採取し職工十二人ばかりで搗粉石灰岩抹壁材料等を一日十噸位づつ作って居りまして(後略)」(昭和6年2月25日付、関豊太郎あて書簡)
手許の「校本宮澤賢治全集」第十二巻(下)を紐解くと、東北砕石工場関係だけでも、かなりの量の文章や几帳面なメモ、資料を残していることがわかる。
松川石灰と反対側の貨物ホーム。ウィンチを、おばさんが操作していた
賢治は40キロもの見本をトランクに詰めて、健康をかえりみずに販路拡大に奔走し、同年9月、東京・駿河台の旅館で肺炎にたおれ、ついに再起することはなかった。
ちなみに、いま現在、この工場は廃止されて建物は地元自治体に寄贈され、賢治を記念する施設として残されているらしい。
さすがに片隅からトランクを抱えた賢治がふらりと出てくるような雰囲気は残されてはいなかったが、作業員のおじさんおばさんが大勢で、ごく短距離の非効率的なトロッコ輸送作業に取り組んでいる姿は、高度経済成長後の日本とは思えないところがあった。
いろいろと感慨にふけったり、また松川石灰の線路を引き返して写真を撮ったりしているうちに、もう帰京しなければならない時間である。
朝顔カプラーの部分にワイヤ固定具が取り付けられホーム上のウィンチで引く
上)東北タンカルの工場からベルトコンベヤで運び出した袋をトロッコに積む。
右)積換えホームへは508mmの軌道が複線で続いていた。
考えてみると、まだ工場事務所を訪問していないので、何の資料も入手していなかったが、まあそれは誰か研究家がやっているかもしれない、などとお気楽に考え(じつは高校の後輩のN関くんたちが後に訪問しているし、後年、TMS誌に紹介記事が出たらしい)、ぶらり散歩のような撮影小旅行を終えることにした。